2024年09月30日
シルバーバーチの霊訓

ものごとは善にもなり悪にもなります。そこにあなたの選択権、自由意志、決断力、判断力を使用する要素があるわけです。それは大霊(神)があなたに与えた神性の一つです。言い変えれば、あなたは神の操り人形ではないということです。
その判断・決断に際して背後霊は、あなたが正しい選択をするよう精一杯の努力をします。しかし時には大切な教訓を学ばせるために思い通りにさせることもあります。が、その裏にはあなたがきっと無傷で立ち直り貴重な叡智を身につけてくれるとの確信があります。
Posted by クルト at
12:12
│Comments(0)
2024年09月28日
シルバーバーチの霊訓

いかなる教義も魂を拘束します。教義を守るから立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人間は教義の名のもとに戦争を仕掛け、教義の名のもとに異教徒を焼き殺してきました。
魂を束縛するもの、精神の手かせ足かせとなるもの、霊性の自由な発現を妨げるものは、いかなるものであっても取り除かねばなりません。
Posted by クルト at
18:15
│Comments(0)
2024年09月27日
自殺の問題。

〔自殺についてのシルバーバーチの考えは、はっきりしている。地上人生を自ら終わらせることは、完全に摂理に反することである。自殺に対するシルバーバーチの説明によって、次のような質問をした女性は自殺を思いとどまることができた。〕
愛する人に先立たれた者が、自ら命を絶つことは許されるでしょうか。
いいえ、許されません。摂理の働きは完璧ですから、あなたはそれに忠実に従って生きなければなりません。摂理は大霊(神)によって、すなわち完全なる愛によって統制されています。大霊はすべてのものに存在すると同時に、すべてのものを通して顕現しています。大霊によって統制されている摂理の働きを妨げる権利を有する者はいません。もしあなたが、摂理に反して自ら命を絶つとするなら、その行為に対する代償を払わなければなりません。
例えば、熟さないうちにもぎ取ったリンゴは美味しくないように、あなたの霊に準備ができていないうちに霊界へ行ったなら、長い調整期間の中でその代償を払わなければなりません。愛する人々とも会えなくなります。自殺によって、あなたと周囲の人々との間に隔たりができてしまうからです。
〔この質疑応答は翌週の《サイキック・ニューズ》紙に掲載され、それを読んだ当の女性から次のような礼状が届いた。〕
「司会をされた方がシルバーバーチ霊にお礼を言ってくださったかどうか存じませんが、早々にこのような明解な答えをいただいたことに対して、どうか“あとに遺された者”からの感謝の気持ちをお伝え願えませんでしょうか。正直に言って、回答を読んだときは暗たんたる気持ちになりましたが、今ではお言葉に従って、霊界からお呼びがかかるまで力の限り生き抜く覚悟を決めております。」
訳注)カール・ウィックランドの『迷える霊との対話』(ハート出版)の中に、十年前に自殺をした女性が出現して語っている例が紹介されている。その中で、本当は十年後のその日に死すべき運命にあったものを、摂理に反した死に方をしたために、その日まで苦しみ続けたと述べている。
Posted by クルト at
16:17
│Comments(0)
2024年09月26日
タネ蒔きと収穫(絶対不変)の摂理

大地が〝実り〟を産み出していく自然の営みの中に、神の摂理がいかに不変絶対であるかの教訓を読み取るべきです。大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、大自然の仕組みのすばらしさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、そのすべてを計画した宇宙の大精神、すなわち神の御心をいくばくかでも悟られるはずです。
蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因(たね)は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの結果(みのり)をもたらします。自然界ついて言えることは人間界についてもそのまま当てはまります。
利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑(かたくな)な人、利己的な人は、不寛容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。
発生した原因は数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。聖職者であろうと、聖職者でなかろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。
霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかはありません。
その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのです。邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身が犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。
人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡智と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは神がぜんぶ用意してくださっております。材料は揃っているのです。あとは各自がそれをいかに有効に使用するかに掛かっております。
Posted by クルト at
13:20
│Comments(0)
2024年09月25日
まず正直から。

世間でいう〝成功者〟になるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、そのうち、あっさりと価値を失ってしまいます。
大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じるものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。
これさえできれば、世間がどう見ようと、自分は自分としての最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。
そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来た時、死後に待ちうける生活への備えが十分にできているという自信をもって、平然として死を迎えることができます。
Posted by クルト at
13:55
│Comments(0)
2024年09月24日
霊団の使命。

人間はやはり神の摂理にのっとった生き方をしなければならないのだと思い知るまでは、混沌と破綻と悲劇と崩壊の止む時はないでしょう。私たちは人間も本来は〝霊〟であることを原理とした摂理を説くほかはありません。
なぜなら、物的なものが朽ち果ててチリとなった後になお残るのは霊的なものだからです。物的なものだけに目を向けている人間は大きな過ちを犯します。なぜなら、その生き方は幻影を追い求めて永遠なるものを忘れているからです。いたって簡単なことなのですが、そのことがいまだに理解されておりません。
Posted by クルト at
15:41
│Comments(0)
2024年09月23日
祈りとは。

「祈り」とは〈波長を合わせること〉です。
すなわち自分の意思を宇宙の大霊(神)の意思と調和させることであり、大霊とのつながりをより一層緊密にすることです。
型にはまった文句には何の効用もありません。その上、その文句に誠意がこもっておらず、それを口にする人みずから内容に無頓着であるのが通例です。永い間それをロボットのように繰り返してきているからです。
真の祈りにそれなりの効用があるのは事実です。しかし、何と言い訳をしようと、身を粉にして果たさねばならない人間的努力の代用にはなりません。
祈りは、自分の責任と義務を避けようとする臆病者の避難場所ではありません。いかに強烈に祈っても、神の定めた因果律を寸毫(すんごう)も変えることはできません。
人のためという動機、自己の責任と義務を自覚した時に魂の奥底から自然に湧き出る祈り───それこそが霊的であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。
その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。しかし、それはその祈りの行為によって生じた霊的波動が生み出す自然な結果です。
Posted by クルト at
18:25
│Comments(0)
2024年09月22日
スピリチュアリズムとは。

スピリチュアリズムとは信仰ではありません。人間とは本来は霊的存在であるということ、我々は神の不変の法則のもとで生きているということを知る〝知識〟なのです。
神はこの宇宙を不変の法則によって支配し顕現していくように定めました。宇宙のあらゆる側面が法則によって治められているのです。この物的地上界であろうと、人間に感知できない、それよりはるかに大きな霊界であろうと、法則が行き届かないというところはどこにもありません。
神からのギフト再出版会
https://yukio-kuroki.com/
山村幸夫(1962~2002)
宮崎県生まれ。東海大学卒業後1987年渡米。
1990年より、スピリチュアルヒーリングを中心とした霊的活動を始める。
アメリカ・ロサンゼルスを拠点にして、他州や外国、日本で心霊治療等の奉仕活動を精力的に行い、人々に霊的な真理を広める。
Posted by クルト at
11:03
│Comments(0)
2024年09月21日
亡くなるということ。

死は、霊に準備が出来た時に訪れます。それはリンゴが熟すると木から落ちるのと同じです。
まだ熟し切らないうちにもぎ取れば、そのリンゴは食べられません。霊も十分な準備が出来ないうちに身体から無理やり離されると、それなりのペナルティが課せられます。
一人ひとりに生まれるべき時があり死ぬべき時があります。それもすべて自然の摂理の一環なのです。
人間はあまりに永いあいだ、死を生の終わりとして考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なさず、死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可決の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。
死ぬということは生命を失うことではなく別の使命を得ることなのです。
そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生しただけであって、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするために地上へ来ただけなのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。
元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。
皆さんもいずれは寿命を全うして、その肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると自然にはげ落ちるわけです。
土の束縛から解放されて、死の彼方で待ちうける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげるべきです。
シルバーバーチの霊訓 「自殺について」
https://silverbirch.ashita-sanuki.jp/e1331996.html
Posted by クルト at
10:37
│Comments(0)
2024年09月20日
愛について。

気が合うというだけの友情、趣味が同じということから生まれる友愛から、己を忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕的精神に至るまで、愛は数多くの形態を取ります。
地上では、愛〈Love〉という言葉が誤って用いられております。愛とは言えないものまで、愛だ愛だと、さかんに用いる人がいます。本能の満足でしかないものを愛だと錯覚している人もいます。
愛とは魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神とのつながりを悟った時におのずから湧き出てくる魂の欲求です。最高の愛にはひとかけらの利己性もありません。すなわち、その欲求を満たそうとする活動に何一つ自分のためにという要素がありません。それが最高の人間的な愛です。
愛は大きさを測ることはできません。重さを測ることもできません。いかなる器具をもってしても分析することはできません。
なのに愛は厳然として存在します。宇宙における最大の力です。大自然の法則を機能させる原動力です。愛あればこそ全大宇宙が存在するのです。宇宙が、その宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後には、この愛の力が存在します。
生命活動の原動力であり、霊の世界と物質の世界の間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。
完全なる愛は恐怖心を駆逐します。知識も、恐怖心を駆逐します。愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めません。進歩した霊は、いついかなる時も恐れることがありません。なんとなれば、自分に神が宿る以上は、人生のいかなる局面に遭っても克服できぬものはないとの信念があるからです。
これまであなたを包んできた愛が今になって見放すわけがありません。それは宇宙の大霊から放たれる無限なる愛であり、無限の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人のために役立たんと志す人々の力となります。気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。あなたのまわりに張りめぐらされた防御帯であり、決して破られることはありません。神の力だからです。
愛は死を乗り越えます。愛は永遠不易のエネルギーです。それが宇宙を支配しているのです。
Posted by クルト at
14:44
│Comments(0)