2022年02月04日
シルバーバーチの霊訓

(101)もうイエスのような大人物が出現する必要はありません。たとえあのナザレのイエスが今この地上に戻ってきたとしても、多分地上で最も評判の悪い人間となることでしょう。特にイエスを信奉し師と崇めているキリスト教徒からいちばん嫌われることでしょう。
(102)大半の人間は地上だけが人間の住む世界だと考えています。現代の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで、物的なものを、いずれは残して死んでいかねばならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。
戦争、流血、悲劇、病気の数々も、元はと言えば、人間が今この時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂(スピリット)なのです。
それが地上という物質の世界での生活を通して魂を生長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです。
(103)宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在の微かな影を見たに過ぎません。
(104)キリスト教界にも奇特な行いをしている真摯な人材は確かに存在します。私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かなければならないからです。真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。
同胞のために自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそれを何度申し上げてきたことでしょう。しかるに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。
人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし、新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません。
(105)神は人間に理性という神性の一部を植え付けられました。あなた方(クリスチャン)もぜひその理性を使用していただきたいのです。大きな過ちを犯しそれを神妙に告白する───それは心の安らぎにはなるかもしれませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。
神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。
(106)あなた(キリスト教の牧師)に理解していただきたいことは、聖書のテクストのことをうんぬんするよりも、もっともっと大切なことがあるということです。主よ、主よと叫ぶ者がみな敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそ敬虔なのです。
それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日なおあなた方は、それが一番大切であることをなぜ信者に説けないのでしょうか。
(107)動機が何であるか───これが最後の試練です。魂の奥の静かな、そして小さな声が反発するがゆえに戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にイザとなれば我が身を犠牲にする覚悟を持って戦場へおもむく人間とは、私たちの世界から見て上下の差はありません。動機がもっとも優先的に考慮されるからです。
(108)地上には幾十億と知れぬ人間がおり、みな成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。したがって全ての者に一様に当てはめられる型にはまった法則、物的なものさし、といったものは存在しません。
固定した尺度を用いれば、ある者には厳しすぎ、ある者には厳しさが足りないということになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪とは縁のない人間には何の係わりもありません。
(109)神は人間各自に、決して誤ることのない判断の指標、すなわち道義心というものを与えています。その高さはそれまでに到達した霊的成長の度合いによって定まります。
あなたが地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自の取るべき手段を判断する力、つまりそれが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は、例外なく備わっております。
あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。
徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度において高いこともあれば低いこともあります。しかし、互いに正反対の考えをしながらも、双方ともそれなりに正しいということもありうるのです。
(110)再生(生まれ変わり)というものが事実であることは私も認めます。それに反論する人たちと議論するつもりはありません。理屈ではなく、私は現実に再生してきた人物を大勢知っているのです。
どうしてもそうせざるを得ない目的があって生まれ変わるのです。預けた質を取り戻しに行くのです。ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物ではありません。
一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、その海面上の部分だけです。死後再び生まれ出てきた時は別の部分が海面上に顔を出します。
潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。
Posted by クルト at 05:32│Comments(0)